競馬ファンにとって5月の最終週の日曜日は、日本ダービーの日。3歳馬のナンバーワンを決めるビッグイベントだ。このレースに勝つと牡馬は種馬としての将来が約束され、老後も安定する(?)。いや、走ることを辞めても、ダービーを勝つこともできるかもしれない子孫を残す厳しい仕事が待っている。
筆者も実は学生時代(??)からの競馬ファン。当時はマーチス、アサカオー、タケシバオーの3強が話題となり、マーチスが皐月賞に勝つとダービーではこの3強対決でマスコミも大いに賑わった。私はなぜか田舎くさい漢字のタケシバオーのファンでダービーの日を楽しみにしていた。
当時は学生でもあったので競馬場まで行くことはなかったが、今は無き後楽園休場の外野席下に設けられた場外馬券売り場で買った馬券を握り締め、テレビ桟敷で観戦となった。当然3強が勝と思いきや、一人旅を続けるタニノハローモアという馬が、互いに牽制する3強を尻目に逃げ切ってしまった。当然馬券は紙くずとなってしまった。
その後のタケシバオーは5歳になってから13戦10勝と化け物と言われるほどに強い馬となり、あたり馬券はうま味のない配当となり、馬券ファンにとっては強すぎて嫌われるほどだった。その父親のチャイナロックから5年後に生まれたのが、東京・大井競馬場で初出走から6連署して中央競馬会に移籍したハイセイコーだった。
私も社会人として落ち着いた時で、そのハイセイコーも中央競馬界入りしてからダービーに出走するまでに弥生賞、スプリングステークス、そして皐月書、さらに日本ダービーの開催地・東京競馬場でのNHK杯まで連勝記録を伸ばし、バービーの日を迎えた。当日の東京競馬場はハイセイコー人気で当時としては最高の10万人を超える観客が押し寄せた。
ちょうどその日が社内旅行からの帰りの日で、ダービーの中継は見ることができず、ラジオで聞いた記憶がある。家に帰ってからニュースで圧倒的な一番人気になった野武士ことハイセイコーがタケホープ、後の菊花賞場イチフジイサミにも負け3着でゴール版を走り抜けた姿は、好きではなかったががっかりさせられた思いがした。
1968年、73年のことで当時、すでに税理士資格を取り、来るべき所得倍増、経済成長時代にいい思いをされた先生方の中にはすでに他界された先生もいらっしゃるでしょうが、今まさに自らの後継者を育て上げ、事務所の事業承継をする世代になっていることでしょう。こちらは競馬の世界とは異なりロングランの活躍でしたので、その周辺には様々な問題もあります。
そんな問題を一つ一つ先生とともに解き放ち、理想的な事業承継を可能にすべく日々活動している当事業承継支援室ですが、タケシバーオーやハイセイコーといった強力な人材はいませんが、そこそこの気持ちの分かる男どもが誠心誠意活動していますので、どうぞ何なりとお申し付けください。
事業承継支援室長
大滝ふみお
でした。